むぎの穂

むぎの穂って?

『月刊むぎの穂』とは、当エリアセンターが発行する地域密着型コミュニティ・ペーパーです。毎月第1日曜日に折込チラシと一緒に入っています。身近なエッセイや地域のイベント情報、エリアセンターからのお知らせなどを掲載しています。ささやかながらプレゼントコーナーも設けております。

お便り以外の連載も、全て読者の方からのご厚意による投稿です(ありがとうございます!)。新聞読者の方ならどなたでも連載していただけますので、ご興味のある方はぜひご連絡ください。

 むぎの穂童話 

過去に『むぎの穂童話』としてむぎの穂に掲載したお話を紹介しています。どうぞご覧ください。

茂佐(もさ)どんの話 文・田熊正子 絵・秋吉ヤス子

昔むかし、筑後の善導寺村に、茂佐どんという若い男が両親といっしょに暮らしておった。茂佐どんの家は農家であったので、馬を二頭飼っていた。

ある年のこと、稲取りも終わったので、父親が晩飯を食べながら言った。

「そろそろ麦も蒔かにゃんごつなったけんで、茂佐どんよい、明日から田ば鋤いちくれんかい。」

それを聞いた茂佐どんが「どこから鋤いたらよかの?」 と、たずねた。

父親は、「そりゃあ、お前、畦ん下から鋤かじゃこて」 と答えた。

翌朝、父親は馬をひいて山に柴刈りに、母親は畑の草取りに出かけて行った。 茂佐どんはもう一頭の馬をひっぱって、田んぼへ行った。 そして一日が過ぎた。父親が山から帰ってくると、さっそく田の中を見廻りにやって来た。 しかし、その辺に茂佐どんの姿は見えなかった。よーく見ると、畦の下に、つーっと一筋の鋤の跡がついている。 父親がその跡をたどって行くと、よその田んぼの畦の下を鋤いて行ったあげく、 山越え谷越え、とんでもない所まで、二里も三里も鋤いて行っていたのである。

「この呆けもんがあ。」父親はぶつぶつ言いながら家にもどった。

その晩、父親が酒を飲みながら、母親に言った。

「今日は、山仕事に行く時、おっそろしか弁当ば作ってくれたけんで、ばさろう仕事がはかどったばい。やっぱぁ、飯が仕事ばするったい。」

それを聞いた茂佐どんは翌朝、

「おっ母しゃん、昨日お父っちゃんに作ってやったごたる、ばされ大きか弁当ば二つ作ってくれんの」 と、母親に頼んだ。

母親は、「なんばすっとやろか、こん子は」と思ったけれど、息子の言うとおりに、大きな弁当を二つ作ると持たせてやった。

父親は、その日も山に、母親は畑に出かけた。夕方になって、父親は、薪をどっさり馬の背に乗せて帰ってくると、田の中を見廻りに行った。

すると、茂佐どんは鋤の先に弁当をくくりつけて、ぐうぐう鼾をかいて寝ているではないか。父親はあきれ返って、

「やいこら茂佐、なんちゅこつか」と、怒鳴ってしまった。

茂佐どんは、父親の怒鳴る声でやっと目を覚ました。

「お前やあ、いっちょん仕事ばしとらんじゃなかかあ」と、目を三角にして、怒っている父親を見ても、茂佐どんはすました顔で、

「お父っちゃんな夕べ、飯が仕事ばするち言いよったじゃんかあ」と言ったそうだ。

茂佐どんの家は、善導寺の木塚という所にあって、秋には柿の実や栗の実がどっさり取れた。 ある日のこと、母親が言った。

「今年はなんでんかんでん、ばさろ取れたけんで、町へ行って売ってこんかい。」

そして、さっそく荷担(にな)いじょうけに、お茶と栗と柿を入れて用意してやった。

茂佐どんは「そんなら行っちくるばい」と言って、「よいしょ、よいしょ」と荷担い棒で荷担うと、町へと出かけて行った。しかし、日が西に傾いても茂佐どんの荷は少しも軽くならず、何一つ売れなかった。茂佐どんは泣きべそかいて、帰って来ると

「おっ母しゃん、いっちょん売れんじゃったばい」 と母親に訴えた。

母親は茂佐どんにたずねた。

「あんたぁ、何んち言うち、さるいたの?」

「そりゃあ、『チャックリカアキヤイーランノウ、チャックリカアキヤイーランノウ』ち、くり返し言うちさるいたたい」

「あきれた。そげんこつじゃ売れんたい。柿は柿、栗は栗ち別々に言わじゃあこて」

「ふーん、そんなら明日もう一ぺん行っちくるたい」

茂佐どんはそう言うと、明くる日も荷担い棒を担いで出かけて行った。

今度は、母親に言われたとおりに

「茶は茶でべつべつ、栗は栗でべつべつ、柿は柿でべつべつ」 

と言ってふれ歩いた。

しかし、それでも、町の人たちは、けげんな顔をしただけで、何も買ってはくれなかったそうだ。

又ある日、茂佐どんの父親が 「肥やしがいっぺえ溜まったけんで、あげじゃこて。お前も手伝え」 と言った。

父親はさっさと仕度をして外へ出て行ったが、茂佐どんは臭くて汚い肥え汲みはしたくなかった。しかし仕方なく、しぶしぶ父親の後について行った。父親は肥やしを肥たご(桶)いっぱいに柄杓で汲みあげると、「その竹ん棒で、肥溜めん中をようと掻きまぜろ」と茂佐どんに言った。茂佐どんが鼻をつまんで、おそるおそる掻きまぜていると、イライラした父親が 「まちいっと、腰入れち掻き混ぜろ」といって叱った。すると茂佐どんはビックリした顔で父親の顔を見つめてもじもじしている。「ほんなこて、なんばしよっとかあ。早よせんかい」と父親が怒鳴ると、茂佐どんはやおら股引を脱ぐと、便つぼの中に入り、腰を廻し始めた。あきれ返った父親はあわてて茂佐どんを引きあげると、流川に連れて行って投げこんだ。父親に川の水で体を洗ってもらった茂佐どんは、父親と肥えたごを中吊って、畑まで運んで行くことになった。父親より背が低い茂佐どんは、荷担い棒の先の方を担いで歩き始めた。途中で溝があったので、ちょいと跳んで渡ったら、父親が溝にはまってしまった。そして肥えたごの中の肥やしがどぼどぼと父親の頭の上に、こぼれ落ちたからたまらない。父親の悲鳴に驚いた茂佐どんは、大慌てで家へ逃げ帰ると、大声で「おっ母しゃーん、おおごつんできたあ。 お父っちゃんが、ばば(肥やし)引っかけち糞親父になってしもうたあ」 と叫んだ。それを聞いた母親は、「なんちや? うちん人はどうしてそげなばば(婆)さんば引っかけた(手を出した)とじゃろか」と言って頭にニョキニョキと角を生やしたそうだ。

 むぎの穂童話 

過去に『むぎの穂童話』としてむぎの穂に掲載したお話を紹介しています。どうぞご覧ください。

殯宮(もがりのみや)伝説―御勢大霊石神社縁起 文・田熊正子 絵・秋吉ヤス子

遥かに遠い太古の昔、宝満川はまだ有明の海に繋がる入り海であったのでございます。 その海の中に突き出た岬には、鶴や鴨などの渡り鳥が飛来し、鶴崎と呼ばれておりました。

北には絶えず浜風が訪れる吹上があり、浜千鳥が遊ぶ干潟が続いておりました。 波の彼方には津古の船着場や、横隈の入江があり、下って大崎の岬から南に堂嶋があり、 遥かに遠く、八丁嶋、千代嶋、塚嶋などが点々として、海の上に浮かんでいたころのお話でございます。

申し遅れましたが、私はここ御勢大霊石神社(みせたいれいせきじんじゃ)の森で世の移り往くさまを見て参りました イチイの木の精でございます。

その頃、倭(やまと)の朝廷は朝鮮半島を統治していて、その策源地はここ筑紫にあったのでございます。 ところが半島では、勢力を伸ばしてきた新羅が、 百済や高麗を圧迫して遂には、わが任那(みまな)の日本府を滅ぼさんとしておりました。 任那の日本府の救援要請を受けた倭朝廷は、救援を出すことにしたのでございますが、 朝廷の策源地が筑紫にあることを知った新羅は、狗奴国の後身である熊襲(くまそ)を唆して攪乱を計ったのでございます。

仲哀天皇の八年(199年)正月のことでございました。 天皇は男装をされた皇后の気長足姫尊(おきながたらひめのみこと)とともに出陣されて、筑前の香椎にご到着になり、そこを本陣とされました。

翌九年には、筑前朝倉山岳地帯に勢力を持つ熊襲羽白熊鷲征伐をするために、 御笠郡をご通過になり筑紫路に入られました。 そして、宝満川の流れに程近い清浄なる地、ここ長栖(大保)に軍を止め給いこの地を仮宮とし、 神々を祀られた後に軍を指揮されたのでございます。

その折りのことでございました。高御産巣神(たかみむすびのかみ)という宇宙の生成力を神格した神が鷹の姿で現れて、 北に飛び立ち横隈の入江の松の梢に止まったのでございます。 天皇はすぐに、その場所に鷹をご神体として祀られて、「隼鷹(はやたか)神社」と命名され戦勝祈願をなされました。

羽白熊鷲の砦は、秋月古処山の麓、野鳥にありました。皇后はすぐに、物部軍を指揮され給いて、 層増岐野(夜須町安野)に至り、近臣を従えて山に登り、敵の行動を窺ったので、 後にこの山のことを住民たちは「目配山(めくばりやま)」と申すようになりました。

戦いは山岳地帯から平地へと展開し、最後は河原(三奈子荷原)の激戦で、 白羽熊鷲が戦死、残党も成敗されて、加担していた農民はクモの子を散らすように分散し、 一ヶ月にもおよぶ戦いは終わったのでございます。 三奈木矢野竹村には、羽白熊鷲が埋葬されたという塚が残されてございます。

その激戦中のことでございました。 仲哀天皇は一日、近臣を従えて軍の士気を鼓舞せんとて、前線を巡視し給い、 夕暮れとなりご帰還の途中、不幸にも敵の毒矢に当たり給い倒れられました。 近臣たちは驚きすぐさま仮宮にお連れして、ご看護をいたしましたが、 かなわずその日の内に崩御されたのでございます。

皇后は激戦中のこととて、皇軍の士気を失う事を恐れ、崩御を深く秘して、 長栖の森の中に殯葬されたのでございます。 今現在「御本体所」として称されている場所でございます。

悲しみの神功皇后は憩う間もなく、山門郡東山の砦を根拠としている熊襲、 土蜘蛛田油津姫の率いる土蜘蛛一族討伐のため、宝満川の舟着場である津古村から、船子の案内で南下されました。 土蜘蛛一族は、地の利を背後に山岳戦で抵抗し戦いましたが、皇軍を前に勝ち目はなく、 とうとう降伏し残党は肥前方面に逃走したのでございます。

ご凱旋の道程は、大善寺付近から筑後川を逆のぼり、宝満川を北上して 深水(ふかみ)の船着場であった神磐戸(かみいわと・上岩田)の津に上陸されました。 熊襲を討伐して筑紫を平定された神功皇后は、お腹に御子を宿しておられたのにもかかわらず、 朝鮮半島の救援に向かうための計画をたてられたのでございます。

まず海の交通の要衝であった磯鹿(しか・志賀島)の海人に偵察をお命じになられました。 それから手漕ぎの船二十五人乗りの軍船を四百艘そろえられたのでございます。 御座船には石を以って天皇の身形代となし甲冑御衣を着せ参らせて、和珥津(わにのつ・対馬)から船出をされました。

そしてその軍船が新羅に近づいた時のことでございます。 海の潮がいっせいに国中を襲い押し寄せたそうでございます。  新羅王は恐れ驚き気絶し、しばらくして回復すると、 「東に神の国あり、ヤマトと言う、かならずやその国の神兵たらん」と白旗を持ち、 神功皇后の前に平伏服属したのでございます。

皇后は再び凱旋されると、長栖に立ち寄られて、 初めて仲哀天皇の崩御を発表されました。 殯宮に安らぎ給う御霊柩を香椎の本陣に移され、代わりに身形代の霊石と剣を納められて、 「御勢(みせ・おっと)の大霊を奉祀たてまつる」と宣言されたのでございます。

されば殯宮とは喪に服している間に、遺骸を安置して置く仮宮のことを言い、 日常では行われない、異常かつ急な状態にあることを示した風習でございます。これは神功皇后摂政2年(202年)の11月のことでございました。 皇后はまもなく、筑紫の宇瀰(うみ・宇美町)で応神天皇をご出産になり、二六九年まで政務を続けられました。さて、社殿創建についてでございますが、そのころ倭では、 山、神木、霊石がそのまま神が宿る霊場とされておりました。社殿の建造は後の世になって、大陸から伝教が伝来して寺院を建て、 御本尊仏を明示したので、その影響を受けてからのことにございます。御勢大霊石神社はその後、11月14日を例祭日として、15代応神天皇、16代仁徳天皇、 17代履中天皇へと代々引き継がれて、大祭には都から勅使が参宮されました。社殿が建造されてからこれまでの長い年月、いくたびも災害や戦禍で焼失いたしましたが、 その度ごとに、領主の御加護があり、再建されて参りました。住民たちからは、由緒ある神社として敬われ、鎮守様として親しまれて今日に至りました。 奈良時代に筑前国守として大宰府に住んだ山上憶良が詠んだ「好去好来歌」に、次のような歌が残されてございます。されば

  「神代より言ひ来(け)らく

  そらみつ 倭(やまと)の国は

  皇神(すべかみ)の いつくしき国

  言霊(ことだま)の 幸(さち)はふ国

  語り継ぎ 言ひ継がひけり」 と。

いつくしき国とは、筑紫国(つくしのくに)とも申し、「尊厳な国」という意味で、 大和朝廷からいたく尊敬されて名付けられた国の名であったのでございます。それでは、これにて私の御勢大霊石神社縁起についてのお話を終えさせていただきますが、 もう一言つけ加えますれば、 瀬高(みやま市)にございます廣田八幡宮の祭神は応神天皇であらせられます。 またその対岸にある聖母宮には、神功皇后が祀られているのでございます。

参考資料

日本史年表 (東京三省堂)

実在した神話 原田大六(学生社)

御勢大霊石神社史 福田忠次編

万葉集 (朝日新聞社)

日本書紀 (朝日新聞社)

古事記 (朝日新聞社)